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【アラベスク】  第18章 恋愛少女



第3節 女同士 [16]




「あの、その銀梅、マートルの香りって、お店とかで買えます?」
「え? そうねぇ、ラベンダーやジャスミンほどメジャーじゃないからその辺りの雑貨店では無理だと思うけど、名古屋辺りに出て専門店にでも行けばあるとは思うわ」
 名古屋。そんなところにまでホイホイと出かけられるほどの電車代は、美鶴には無い。
 でも、一度に大量購入すれば。あ、このオイルって、いくらくらいするんだろう? 安価なモノもあるって言ってたけど。
 小瓶を見つめながら少し瞳を泳がせもする美鶴に、智論はそっと声を掛ける。
「マートルの香り、好きなの?」
 好き、なのだろうか?
 わからない。
 だが、あの時の香りを思い出すと、少し切なく、でもなんとなくホッとする。あの頃の、まだ紳士的だった頃の霞流さんを思い浮かべる事ができる。
 ちょうどこんな季節だった。あの庭の銀梅花は、もう咲いているのだろうか? それとも、まだなのだろうか?
「好き、だと思います」
「思います?」
「そんなにしょっちゅう嗅いでるってワケじゃないから。でも」
 良い香りですね、と、霞流は笑ってくれた。
「銀梅花の香りがすると、なんとなく落ち着くと言うか、勇気が出ると言うか」
「勇気」
「あ、はぁ」
 曖昧に返事をする美鶴を、智論はじっと見つめる。
「マートルの香りは、清涼感があるけれど少し甘さもあって、精神的に不安定な時や気持ち的に弱くなっている時に使うと心が安定して平常心を取り戻せるらしいの。個人差や好みもあるけれど、勇気が出るって言うのも、効能的には間違ってはいないのかもしれないわね」
「え? そうなんですか?」
「えぇ。すごく刺激的な香りというわけでもないから、寝る時に使うと心を落ち着かせる事ができる。不眠などに使う人もいるかもしれないわね。まぁ、香りは好みだからそれぞれだけど」
 言って瞳を横へ流した。
「マートルの香りなら手に入るわ」
「え?」
「特に珍しい香りでもないから、よかったら今度持ってきてあげる」
「え? えぇっ」
 美鶴は思わず腰を浮かせた。奥の席で、今度は四人全員がこちらを振り返る。
「声が大きいわ」
 言われて慌てて両手で口を押さえる。だが興奮までは抑えきれない。
「ほ、本当ですか?」
「嘘は言わないわ。でも私、こう見えても学生なのよ。頻繁にこちらに来れるワケじゃないから、いつって約束はできないわね。あ、でも、肌につけるつもりなら、パッチテストはちゃんとやってね」
「パッチテスト?」
「そ、肌につけてアレルギーを起こしてしまったら困るから。あ、そうか、そもそも精油の使い方もわからないわよね」
 言って、小瓶を指差す。
「その香りも、もしスプレーとかにして直接肌に使いたいって言うなら、最初にテストはしておいた方がいいとは思うわ。もしそうなら言って。テストしてあげるから。って言っても、言われてすぐに対応できるかどうかはわからないけどね。なにせ、レポートも出し損ねちゃったし」
 ペロッと舌を出す表情が愛らしい。
「別に構いません。マートルの香りは急いでませし、この香りも、どう使うかはまだ全然わからないし」
 良かった、と顔を綻ばせる智論の顔が、美鶴には天使のほほえみに思えた。
 智論さんって、本当はものすごくいい人なのかもしれない。
 悪人だと疑うような要素なんてどこにも無いはずなのに、美鶴はなぜだか気持ちが(ほぐ)れていくのを感じた。
 その時、再び智論の携帯が反応した。
 またレポートの件かと二人ともギョッとする。だが智論は画面を確認し、クスッと笑った。簡単に操作する。メールを返信したようだ。
「レポート、ですか?」
「違うわ。塁嗣よ。俺はもう帰るけど、お前はどうするんだ? だって。別に富丘になんて、電車ででも行けるわよ。子供じゃあるまいし」
 呆れたように携帯をしまう仕草に、ふと小さな考えが浮かんだ。
「あの、塁嗣さんって」
「ん?」
「その、智論さんの、か、彼氏、なんですか?」
 一瞬絶句。次には右手を口に当てておかしそうに声をあげた。
「塁嗣が? 冗談でしょう? 私と彼はそんな関係じゃないわよ」
 コロコロとした笑顔に、美鶴も思わず苦笑してしまった。
 考えてみれば、その塁嗣って人だって、智論さんにとっては幼馴染なんだろうから、親しくメールをしたり車に乗せてもらったりしたくらいで彼氏だなんて、ちょっと早とちりが過ぎるよな。
 自分の浅はかな考えにゲンナリし、カップを手に取りミルクティーを飲んだ。窓の外は薫風。爽やかな香りが漂ってきそうだ。
 あぁ、 明日もまた、同級生たちが(うざ)いんだろうなぁ。
 だが不思議なことに、数時間前ほど(わずら)わしいとは思わなくなっていた。
 香り。香りが霞流さんを変えるかもしれない。
 また一つ、手掛かりを得たような気分。
 自分はきっと、前進している。確実に霞流さんへ近づいている。
 負けない。
 霞流さんにどんな事をされようとも、私、絶対に諦めない。
 テーブルに置いた小瓶を手に取り、そっと、だが力強く握り締めた。







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